人と話すなかで
自分の経験でしかないので、
みんながそうなのかどうかわかりませんが
「もっともらしい意見で、もっともっぽく人を説き伏せよう」
とするとき、
自分の中にものすごく複雑な感情が渦巻いていませんか。
なんというか。
自分もほんとは納得いっていないのに、いやらしい思いが沸きだしているのに、
言ったセリフで自分のそれは見ないようにしようとか、ごまかそうとしていたりとか。
少なからず私にはそういうことがあります。
自分の経験でしかないので、
みんながそうなのかどうかわかりませんが
「もっともらしい意見で、もっともっぽく人を説き伏せよう」
とするとき、
自分の中にものすごく複雑な感情が渦巻いていませんか。
なんというか。
自分もほんとは納得いっていないのに、いやらしい思いが沸きだしているのに、
言ったセリフで自分のそれは見ないようにしようとか、ごまかそうとしていたりとか。
少なからず私にはそういうことがあります。
事務所にもどって、ボンヤリとウェブを眺めていると
オモシロイページがありました。
これ。
思わず笑ってしまいました。
で、このページのマスターさんが
なんでも
なるページも運営されているとのこと。
レッサーパンダと言えば
そう!
僕が書いた
これ。
あれ、おかしいなぁ。
僕の絵がアップされてないよ。。。。?
(オツカレでタイトルも意味不明です。ゴメンナサイ。
最近ちょっとぶり返してきているので
またすこし鬱について考えてみました。
専門家でもない私がこういうことを安易に書いてしまうのは
僕としてもいいことのか悪いことなのか判断が難しいところです。
この項が不適切であるとのご指摘を頂戴した際には
直ちに削除し、改めて謝罪いたします。
あくまで、鬱病体験中の一人の私見として読んでいただけると幸いです。
やはり、鬱の状況がひどくなってくると
「死にたい。消えてなくなりたい。」
という意識は少なからずどこからともなく沸いてくるものです。
「そんなの誰だってこのご時世シンドイしやな!
お前があまったれで貧弱なんだよ!!」
と、いわれてしまえば僕は反論する気はございません。
実際すくなからずそういう部分が起因していることも事実だと思います。
ただ、先生とお話させてもらっていた中でも、
死を意識する過程には大きな違いがあるということなのだそうです。
「自分がいやだ。⇒消し去りたい。⇒死んでもいい」
という過程と、もっと根本的に
「死にたいという願望が根源的に根付いているのだが、それでも生きている」
という場合なのだそうです。
先生にしてみると後者の人に対しては治療が非常に困難で時間と神経を要し、
前者のほうは度合いにもよるが改善していける希望はまだある。
とのことなのだそうです。
いずれにせよ、とどのつまりまでいってしまった人間に
「ちょっと、一歩下がって考えてみなよ。」
と言うは易しですが、おこなうのはなかなかできないというのは
自身の体験から知っています。
ただ、生きているのだからなんとか
「一歩下がって見極めてほしい」
というのは切に願うばかりです。
僕自身も含めて。
ウチの愛犬ムーちゃんは、くにひろ家にとって
「太陽」であり「宝物」です。
僕が家に戻ると必ず嬉しそうに出迎えてくれるし
我が家のさまざまな危機もいつも陰ながら助けてくれていました。
僕が鬱で苦しんでいるときもいつもそばにいてくれました。
そんなムーちゃんは僕が高校(中学?)の頃から
我が家の一員であるので人間で言うとかなりの高齢です。
カラダにもいろいろとガタがきています。
特に後ろ足の間接部分。一昨年前くらいからびっこをひきだすことが多くなり
冬になるととても痛そうにしておりました。
(それでも散歩に行きたがるし、走り回るのだけど。。。)
お医者さまからは、
「ん~。もう完全にゆがんでしまっている(関節)から完治は無理っぽいね」
「散歩とかも走らないようにしてね」
とも言われておりました。
(それでも走るんだけど。。。)
そこで、すこし前から犬用の「グルコサミン」をあげるようにいたしました。
関節痛とかに効くといわれる健康食品です。
そのおかげか暖かくなってきたせいか、
最近ずいぶん痛みが和らいできたようです。
いぜんより、動きが軽くなりました。
ものを言わぬ存在の痛みや苦しみは本当に分かりづらいです。
自分が人に伝えられないような苦しみの中にいるときは敏感に気づいてくれたのに、
どうして僕はもっと早くになにもしてあげなかったのだろう。
自分が情けなくなって泣けました。
今は前より楽しそうに散歩している愛犬をみれて嬉しいです。
ムーちゃん。いつも本当にありがとう。
いつまでも我が家の太陽でいてください。
やはり、僕はゆらぐのです。
僕は人であると同時に、なにかの延長線上の****であったりするのだから。
そのなにかというのは、「ゆらぐことによって始まったもの」であるそうです。
僕は人が生きやすいよう創り上げた社会の中で生きていると同時に
ゆらぐことから始まったなにかの延長線の一部でもあったりします。
ゆらぐことは弱いことを意味することなのかもしれません。
しかしながら、僕はゆらぎから生まれたものであったりします。
「僕はゆらぐのだ。」
ということに関して、僕はゆらがない。
そう思えてならないのです。
まだ、東京にいたころ。
都心に出やすいところに住んでいたので、
よくカフェを巡っては本をよんだり、ぼんやりと空想にふけったりと、
コーヒー一杯でずいぶんと心地よい時間を過ごさせて
いただいたものです。
大阪に戻ってからは、そういった時間を過ごす機会は
随分と少なくなってしまいました。
少しさびしい気がいたします。
そんな中、インスタントコーヒーでことを済ます機会も多くなって、
最近少し気づいたことがあります。
それは、たとえ同じインスタントコーヒーでも
「人に淹れてもらったコーヒーはなぜか美味しい!」
ということです。
どうしてなんだろう。
同じコーヒーで同じ淹れ方なのに。
「分量や淹れ加減は人によって異なるから。」
と言ってしまえばそれまでなのですが、
それ以上に、ひとが自分にかけてくれる手間や心遣いが
そう感じさせてくれているような気がするのです。
お母さん、いつもありがとう。
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