苦悩の果てに
詩人と呼ばれる人がいます。
それはなにも特別な人を指すのではなく、浮世離れした人を指すのでもありません。
人はその人生のなかで一度は誰もが詩人であるときがあります。
恋に目覚めたとき、将来を憂うとき、大切な人と離別したとき。
ただ多くの場合、人は知らないうちに詩を捨てていきます。
そのとき、詩を捨て切れなかった人が詩人とよばれるのだそうです。
そういう意味で、赤子は言葉を持たぬ至高の詩人とよべれかもしれません。
生きる苦悩もこれとよく似ているのではないかと感じるときがあります。
なんのために生きなぜ死んでゆく、私とはいったい誰なのか。
世界と私を繋ぐ糸はなんなのか、私を生かしてくれている意図とはなんなのか。
おそらくこれは、生を授かった者の「問1」であるとともに、
命を終えるときまでの課題なのではないだろうか。
ただ、多くの人はこの大いなる問いを上手に脱皮させていきます。
「なぜ生きる」から「どう生きる」へ。
僕が大学を受験するときに、英語の先生がひとつの「コツ」を教えてくれました。
「英語の試験では多くの場合、問1に難解な長文問題が出題されます。
でも、問1を解くのは後に回しなさい。
問2以降の簡単な問題から順番に取り組みなさい。
それらの問題のなかには必ず、問1を解くヒントが含まれています。つまり、
それらを解いていけば最終的に問1が初めより解きやすくなっているはずですから。」
僕はその先生の言うとおりに受験に挑み、合格することができました。
これはさきほどの問1にも当てはまるのではないかと思います。
答えの出にくい「なぜ」から「どのように」に問いを進化させ、
どう生き抜くかを苦悩する。すると、
人生をまっとうするその瞬間に自然と
「なぜ」の解答が得られるのではないだろうか、と。
「どのように」というのは有益で建設的な問いの立て方です。
ついにはその哲学を羽化させ、生き辛いといわれる世の中を
自由に飛び回る人もでてくることでしょう。
おそらくそれが正しい在りかたのような気がします。
ですが
「問1から目を背けてはいけません。」
ある時以来、僕の中ではなにかがそう叫び続けます。
僕は自分の感覚に従います。
僕はいつも片目を開けたまま眠ります。
厚い雲の切れ間からいつ月が出てもいいように。






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